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戦場へ駆り出されたのは青年学校のみならず、中学生も同じだった。 昭和20年3月、米軍の上陸が必至という状況の中で、日本軍は 少年少女もとも言えるような学生・生徒の動員を始めていた。
当時の状況が『沖縄苦難の現代史』のなかに、次のように書かれている。
3月に入るや県立第2高等中学校生徒の一部が本部半島に展開していた宇土部隊に編入されたのを皮切りに、そして3月23日、米軍の上陸前大空襲が開始され、艦砲射撃も加わった翌日、県立第2高等女学校生徒が従軍看護婦として、山部隊に配属され、兵隊と行動を共にすることになった。25日に、県立第一高等女学校生徒は、南風原陸軍病院に従軍看護婦として配属され、那覇市立商業学校生徒も鉄血勤皇隊・通信隊を編成して各部隊に配属されていった。また26日は、県立2中私立開南中学・県立3中・県立農林学校生徒らが鉄血勤皇隊・通信隊として各部隊に配属されていった。第三高等女学校生徒も北部の各部隊に看護要員として加わった。女学校生徒が看護要員として石部隊に、さらに同日県立第一中学生徒が鉄血勤皇隊通信隊として球部隊に配属されていった。29日には県立工業学校生徒が鉄血勤皇隊として球部隊に、女子師範学校生徒が看護要員として南風原陸軍病院に配属されていった。沖縄本島へ上陸した前日の31日、私立積徳女学校生徒が看護要員として山部隊に、沖縄師範男子部生徒が鉄血勤皇隊として軍司令部直属として配置された。さらに、15歳以上の女子青年らが各部隊に女子救護班、女子炊事班、義勇隊の名目で弾薬運搬要員として恣意的に動員されていった
文字どおり根こそぎの動員であり、これら配属されていった生徒たちの大半は、二度と学校にも家庭にも帰ることはなかったのだ。
こうして、どこで果てたさえもわからずに、家族が引き離されていった。 まさに悲劇そのものである。
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