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沖縄戦は1945年4月1日に始まったが、 悲劇は一年前からすでに始まっていた。
1. 絶対国防圏の陥落
1944年7月7日「絶対国防圏」といわれていたサイパン島が陥落し、 その途端、沖縄から他府県出身の県庁の役人とその家族が一斉に本土への出身地へ引き揚げていった。一般の人々には知るよしもなかった、来るべき
「本土決戦」の前に沖縄が決戦場になることを知っていたからである。
また、政府は翌月から九州や台湾へ学童疎開を行うことを決定した。 しかし、始まってまもなく疎開船が米軍潜水艦の攻撃を受け、沈没。幼い学童をふくむ1500人が犠牲になった。
ちなみに船の行き先の県では学童疎開の受け入れを拒否していた。 県庁に出向していた大勢の役人達はいち早く引き揚げ、そのうえ、 沖縄の子供たちを拒否する…。沖縄にとっては悲劇以外の何でもなかった。
2. 日本軍の移住と住民の巻き込み
8月に入ると日本軍部隊は続々と沖縄に移住してきた。日本軍は兵舎として、学校、公民館はもちろん一般民家も利用した。政府に割り当てられた兵隊がいきなりはいってきて、部屋という部屋を占領し、家人は台所や土間で寝るしかなかったのである。
こうした「軍民同居」にくわえ、日本軍は沖縄人の軍事徴用や食料供出、陣地構築用資材の供出などを求めてきたのだ。
それまでの皇民教育により沖縄の人々は皇土沖縄を守りにきてくれたと信じて協力を惜しまなかったにもかかわらず、日本軍の兵隊の中には軍刀を抜いて限度を超えた要求をするものも大勢いたといわれる。
これが、「軍官民強制共死の一体化」という本土の方針であった。
こうして沖縄の住民は、戦争に巻き込まれていった。これが、沖縄戦始まりの頃の悲劇だったのだ。
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