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収容所に向かう住民
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Credit:
Okinawa Prefectural Government
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さて、占領下の住民の暮らしは、収容所の中から始まった。収容所は沖縄全島に12ヵ所あった。
収容所とはいうものの、なにもない場所に有刺鉄線を張りめぐらせただけのもので、住民はそこにテントを張ったり小屋を作ったりして雨露をしのいだ。衛生状態は悪く、マラリアのような伝染病が流行して多くの死者が出た。
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収容所での食料配給
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Credit:
Okinawa Prefectural Government
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食糧は配給されたが、一日たった1400カロリーで人々は食糧不足に苦しめられた。
1945年8月15日、米軍は戦前の県議会議員や中学校長などの政治的文化的指導者をよび集め、15名の委員で構成される米軍政府の諮問機関、沖縄諮詢会をつくった。また、9月には市長の選挙を行い、10月頃からは被収容者を解放し始めた。ただし、これらの事は米軍が広大な軍用地を確保した後に行われた。沖縄住民は米政府の民主的軍政を期待していたが、実態はそうではなかった。
沖縄の占領米軍の実態を沖縄を『タイム』誌の記者フランク・キプニーは次のように書いている
司令官たちの中のある者は怠慢で仕事に非能率だった。その軍旗は世界中の
ほかの米駐屯軍のどれよりもわるい。
去る九月に終わる過去6ヶ月間に米軍兵士は殺人29、強姦18、強盗16、傷害33というおどろくべき数の犯罪を犯した。
民主的軍政に期待するアメリカ人記者がこう書かなければならなかったほど、戦争直後はひどい状態であった。