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Title: Tutorial -10・10空襲と日本軍の対応-
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米艦隊の砲撃
米艦隊の砲撃
Credit: Okinawa Prefectural Government
10月10日前後、那覇市を中心に初めて米軍の大空襲があった。特に10日の爆撃は、 たった一日で那覇市の9割が焼失するというすさまじいものだった。
この空襲の時民家の防空壕へ真っ先に逃げ込んだのは日本軍兵士で、後から防空壕に入ろうとする住民を追い出した。 焼け残った家は軍が徴用し、物は勝手に使い、残っていた女性を暴行するという事件も 多発したという。 これらは、沖縄を占領地さながらに見ていた日本軍兵士の考え方によるものではないだろうか.
この10・10空襲(那覇空襲)のあと沖縄守備軍の参謀長は次のように公言している。
 「我々は作戦に従い戦うが、(沖縄)島民は邪魔であり、戦力にならぬものすべて山岳地方に撤去すべし。しかし、軍で島民たちの面倒を見ることはできない。自活せよ。」
そして、強制疎開が始まった。年寄りや子供などが未開の山岳地帯に追いやられたのだ.。食べ物もろくになく、のちに、餓死者やマラリヤによる戦病死者を多数出すことになる。
その後、「戦力にならない島民」を追い払った日本軍は「一木一草戦力化すべし」という方針のもとに足腰の立つ老若男女を戦場動員し始めた。17歳以上45歳以下の男子は、ほとんどが召集され、軍に配属されていった。
こうして、「軍官民共生死一体化」という掛け声のもと、沖縄戦に突入して いったのだが、沖縄人にとってそれは、「共生」などではなく「共死」であり、 さらにいえば強制された「自死」への道だったのだ。
これが、空襲後の悲劇だった。

 

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